以前ここにも書いた、ホンマタカシの展示を見に行ってきました。
いや〜本当にスゴい。説得力ってのは何なんだろうな〜。被写体の真実味が、ちょっと違いました。
展示を観たあとに物販で、ホンマタカシが写真(特にポートレイト)について語ってる記事があるCoyoteを見かけたので、購入しました。
こちらも素晴らしくて、勉強になりました。一部、引用させてもらいます。
そう考えてみると、ポートレイト写真というのは無限の動きの中にあるボクたちの表情の、無限分の1の瞬間で敷かない。であればこそ撮影された本人が、これは自分とは違うなあと感じたとしても不思議はありません。
逆の言い方をすれば、上手なポートレイトというのはその確率の中で、撮られた本人が喜ぶであろう表情をとらえようとする努力の賜物、ということになります。
(中略)
でもボクはあえてこう思うのです、下手のポートレイトというものがありえるのか?と。たとえ一断片に過ぎなくとも、どんな瞬間のどんな表情でもその人のものであることには代わりはなく、かつ上手下手の判断は、見たり選んだりする人がそれぞれの文脈に照らし合わせて下しているに過ぎないのだとしたら、そこには「ポートレイト」があるだけで、上手下手などないのではないか。
なるほど。
写真は単なる「記録」であるべきなのか、それとも、それを超えた何かメッセージがあるべき「表現」なのか。「表現」であるならば、その写真が意図とは違う印象を与えてしまった時、「撮影者」からすると良い写真(ポートレイト)ではない、のではと個人的には思います。
写真はどこかに公開(Webでも何でも)したときから、ある意味撮影者の手から離れる。複写も簡単だし。例えば、音楽時代とか楽器演奏なんかは、「その本人にしか再現出来ない」という点が写真よりは多いから、いつまでも演奏者や作曲者のものっていう印象がある気がする。
とにかく、
もっと前後の文脈を意識すべきでしょうね〜〜。インスタグラムとか辞めた方が良いのかな。笑
見せ方、特に他の写真との関係性。。